なぜ、たがやすなのか?
■苦しい時、自分を成長させたい時、何を基準に行動しますか?
苦しい時、自分を成長させたい時、自分や組織の中にあるリソース(才能、技術、経験、動機など)を見逃していませんか?
一体、自分はどんな情報を得て、どんな決断をしていいんだ?と思ったことはないでしょうか?
私は、追い込まれた時、外に答えを探しに行ってしまう気持ちが痛いほどわかります。
コロナの情報が飛び交い、憶測が飛び交い、不安を煽るような記事からコーチングやコンサルティングへとう誘導するようなオファーが飛び交い、今、個々人にとっても組織にとっても、答えがない中で、決断をするのが難しいと感じているようなお声を頂戴します。
今日は、少しでも同じように感じていらっしゃればと思いつつ、弊社がなぜ「たがやす」なのか、の一端をお話できればと思います。
思いのまま書きたいと感じてしまったため、徒然なる文章にご容赦とお付き合い頂けたら幸いです。
もともと、たがやすという会社は、2015年頃に漠然と描き始めたものでした。
■きっかけは些細なもの。だけど自分の中にあったもの
(外的基準な生き方 ⇆ 内的基準な生き方)
2011年〜2018年まで大手メーカーに勤務していた私は、自分に自信がありませんでした。
自分が言うことに確信が持てなかったからです。
会社の中から、自分で独り立ちすることも視野に入れつつ、
「みんなで活躍する」とか、「やりたいことをみんなが実現できる」とか、
漠然とした思いを抱きつつも、それを言葉にすることで否定される、であったり、求められる仕事で全く太刀打ちできない、
といったことですぐに、めげてしまっていました。
成果が出たとしても、なぜか心から喜べない自分。気づけば周りからの評価に必死になっている自分。
一方で、新しいことや、思いついたこと(例えば、会社の中に子会社を作ってしまおう、とか、会社の不要なルールを変えて最短で数字を達成できそう、とか、会社の外のつながりで社会にできることはあるんじゃないか、とか)については、ワクワクしてしまうのでした。
「たがやす」と言う名前は、会社を起こす時にどんな名前だったらワクワクするか、と仲間で話していた時にふと思い浮かんだものです。
思い浮かぶと、後から意味づけを考えることになります。
意味づけするための参照枠は、自分の人生の中にしかありません。
ウンウン考えながら出てきたは、自分の原体験でした。
人の顔色を伺い、自分のことを言えずに怯えていた中高生時代。
私の両親は私を愛してくれましたし、環境も恵まれました。けれども、どこかでそれを失う恐れから、過剰に「周りの期待」に答えるようになりました。
立ち返ると自分を出せるのは僅かな友達。心の内を話せる友達同士では、「夢も、馬鹿げてると言われてしまいそうだけどやりたいことも、そのための小さな一歩も」楽しく踏み出せるのでした。
そう、踏み出すことができている自分もいるではないか。
では、なぜ現実世界では踏み出すことができないのか?自分を見失っているから?
周りに応えようとして自分を抑えてる時と、心からやりたい時では、行動も、考える量も明らかに違うものでした。
そして、心からやりたいことをする時の面白さを自分は知っている。もっと欲しい!同じような人が周りにもいるのではないか。
外からの基準に合わせて変化することもあるけれど、もっと今あるものの中から変わっていけるんじゃないか。
それが、「たがやす」ということなのではないか。
実践、探求する手段の一つが、株式会社たがやすであり、関わりを持ちながらも強制することなく、自発的な組織に挑戦しています。
■現状を変えるための基準は、自分の中、チームの中にあった!!
同じものを見ていても、人によって「捉え方」が違います。
捉え方が変わると、気持ちが変わり、行動が変わり、習慣が変わり、人生が変わり始めます。
自分の中の原体験で、その時の感動は忘れられません。
そんな気持ちを共有し、捉え方の変化からの現実の変化、感動に対面していきます。
■自分の変化に立会い、人の変化に立会い、集団に立会い、社会の変化に立会う
補足すると、この記事では、「すごいことをしよう」、と言っているわけではありません。
自分の心から望むことが少しでも行動につながり、個々人や組織を幸せなものにしていく可能性についてお話しています。
皆さんの中にも、「できないかもしれないと思っているけれど、やってみたらワクワクしそうなこと」ってありませんか?
または、マネジメントや経営者として、そんな思いを持っていそうな部下はいませんか?
きっと変革のチャンス。
私は、目の前にあるものを大切に、あるものを生かし、豊かな人生と組織、社会の変化に貢献します。
そう、「たがやす」は実践であり、チャレンジであり、生き方なのです。